We are…
2026/02/28
迷って、悩んで、抱きしめて ━ シチリア島の伊達男

地中海に浮かぶイタリア・シチリアで暮らす、ミックス犬のボンの1日は、だいたいこんな朝から始まる。
8時頃、オーナーの岩田さん夫婦が身支度を済ませ、「出かけるよ!」と声をかけると、同じベッドで寝ていたボンがはしゃいで飛び起きてくる。リードをつけて、近所の公園や海辺を散策する。帰ってきたら足を洗って、朝ごはん。日中は岩田さんにべったりくっついて過ごし、夜はまた同じベッドに戻って、イチャイチャタイムを満喫してから眠りにつく。
今年で14歳。「口腔内メラノーマ」が見つかってから約8ヶ月。
ボンの1日は、昔から何ひとつ変わっていない。
目次
犬に寛容なイタリア文化に囲まれて

ボンとは、シチリアの州都・パレルモ市が運営する保護犬施設で出会った。
いつどこで生まれ、どんな事情で保護されたのかは教えてもらえなかった。「犬にもプライバシーがある」と言われたのだという。
そのため、岩田さん夫婦はボンが家にやってきた日、2012年2月22日を、「うちの子記念日、兼誕生日」にした。

ヨーロッパは「ペット先進国」と呼ばれることが多いが、国ごとにその特徴は異なる。
よく例に挙げられるドイツが、規律とルールに基づいた共生ならば、イタリアはもっとおおらかな印象を受ける。
カフェやレストラン、ホテルも基本的に犬の同伴がOK。公共交通機関でも、マズルカバーをつける決まりはあるが、犬連れは驚くほど多いという。
「犬がいるのは自然なこと」というように、社会全体が犬に対して寛容なのだろう。
過去に一度、公園の掃除をしている人の前でボンがおしっこをしてしまったことがある。岩田さんが「すみません」と謝ると、相手は笑って言った。
『いいよいいよ、そんなの「水」だから』
犬のおしっこは、水。イタリアには、そんな人が多いのかもしれない。

そうした犬が暮らしやすい環境の中で、岩田さんはボンを連れてよく旅行に出かけてきた。
シチリア島内の各地はもちろん、飛行機に乗って北イタリアのミラノやトリノ、アルプス山脈で雪遊びをしたり、カーフェリーでイタリア北西部にある港湾都市・ジェノバにも行った。
なかでもボンが好きなのは、海で泳ぐことだ。毎年のバカンスでは、海がコバルトブルーに輝く、世界遺産のエオリエ諸島に出かけている。水深8mもある海でも、ボンは怖がらずに飛び込み、泳ぐという。
シチリアの伊達男は甘えん坊

艶のある茶色の被毛にシュッとした体型、地中海を悠然と泳ぐ姿を見ると、シチリアの伊達男とでも呼びたくなるイケメンシニア犬のボン。
ところが、中身は生粋の「甘えん坊」だという。
「朝ごはんを食べ終えると『食べたよ』と報告して、褒めてもらえるまで離れないんです。それに日中も、私が立ち上がるたびについてくる、トイレの中まで…。ストーカーですよ」
岩田さんは笑って話した。
夜ごはんの後には、ボンのほうから「歯みがきしてくれ!」とやってくるのだという。その目的は、歯みがき時の攻防戦。歯みがきを迫る岩田さんと遊んでいるつもりらしい。岩田さんが「じゃあ、もういいですよ…」と気のないふりをすると、観念して、磨かせてくれるそうだ。
その後は、ベッドの上でイチャイチャしてから眠りにつく。
13年間、ボンは岩田さんと一緒にいるのが当たり前。そばにいるのが普通。そんな風に過ごしてきた。

「口腔内メラノーマ」手術するかしないか問題が勃発
2025年の初夏。その日もいつものように歯みがきをしていると、奥歯付近に黒いホクロのような、小さなデキモノを見つけた。
診断結果は「口腔内メラノーマ」だった。

がんの中でもとりわけ悪性度が高く、転移・再発をしやすいメラノーマ。もし転移があれば、手術による根治の見込みが低くなるため、何よりも先に「転移の有無」を慎重に見極める必要があった。
CT検査やリンパ節の生体検査などあらゆる検査をしたが、結果ははっきりしなかった。「結果に現れないレベルで転移(ミクロ転移)しているかもしれない」というのだ。
すでに発見から2ヶ月が経過し、焦っていた岩田さんに対して、「転移していた場合、ただ痛い思いをさせるだけ」と案じていた主治医は、さらに3週間待つ提案をした。「転移が進んでいれば結果に出るはずだ」と。
「…つまり、転移するのを待て、ってこと?」
岩田さんは受け入れられなかった。ボンの子犬時代から診てもらっていた主治医で、とても信頼していたが、セカンドオピニオンを求めて、がん専門医のもとを訪ねることにした。

がん専門医の意見は正反対だった。
その場で、転移の疑いがあるリンパ節の生体検査をすると、やはり結果ははっきりしなかったが、「メラノーマのある歯茎と、転移が疑われるリンパ節も一緒に取ってしまいましょう」と提案した。
もちろん、結果に現れないミクロ転移があった場合、主治医が言うように「ただ痛い思いをさせるだけ」になる可能性もある。一方で、今なら根治を目指せるかもしれない。
岩田さん夫婦はそこから、とことん話し合った。
さらに、これまでの経緯をブログやnoteで公開すると、小さな頃からボンを見守っていた読者から、自分の経験を踏まえたアドバイスやメッセージがいくつも届いた。
「生きようとする力を、応援したい」
転移の有無がわからず、堂々めぐりのような問いに向き合う中で、切り出したのは旦那さんだった。
『ボンの生きる力を応援したい。僕たちが、勝手に諦めるわけにはいかない』
岩田さんは、ふと思い出した言葉があった。
『ごはんを食べなくなったら、それは最期に向けた準備』
つまり、「食べているうちは生きようとしている」と岩田さんは解釈した。
「ボンは、その頃もいつもと変わらず食欲旺盛だったんです。朝と夜のごはんを勢いよく食べる姿や、なんでも欲しがって「ください」の視線を送ってくる。
『こんなに食べる気満々、生きる気満々なのに…たしかに!勝手に諦めるわけにはいかないね!』と夫婦で意見が一致したんです」
手術当日、麻酔によって意識が無くなっていくボンを見て泣きながら、岩田さんは手術の成功を祈った。
いつも通りの日々を守る

手術は無事に成功。術後の病理検査では、がん細胞はすべて取りきれて、リンパ節への転移もないことがわかった。
しかし、除去した歯茎の腫瘍の悪性度はかなり高く、ミクロ転移の疑いは依然として残っていた。
そこで提案されたのが、半年間、少量の抗がん剤を毎日服用する「メトロノミック療法」だった。
日本でも取り入れられるこの治療法は、イタリアでは「人間へのリスク」が重く語られる。
投与した抗がん剤は、犬の排泄物や毛、吐息にも微量に含まれる。それが人間の体内に入れば、健康な細胞をがん化させる可能性があるからだ。
担当医からは、排泄物を通じた曝露への注意はもちろん、「家の中での触れ合いにも細心の注意が必要、同じベッドで寝るなんてもってのほか」と言われた。
ここでも何日も夫婦会議を行い、ブログやnoteに届いた意見も参考にして、最終的に「治療しない」選択をした。
「もうすぐ14歳。メラノーマがあろうとなかろうと、あと何ヶ月、何年一緒にいられるかわからないのに、貴重な半年間を、ボンを“危険物”のように扱うなんて辛すぎる。
そもそもボンは『突然、冷たくなった』と思いますよね。それがストレスになって、逆に悪化するのでは?というアドバイスも多くいただいて、まったくそうだな、と思ったんですよ」

手術から3ヶ月が経ち、ボンは以前よりもむしろ元気になった。
散歩では思い切り走り、家の中ではいつものように甘え、岩田さんの隣で1日を過ごす。夜には歯みがきをせがみ、終わるとベッドに誘う。
メトロノミック療法を選ばなかったのは、ボンがボンらしく過ごせる、この日常を守りたかったからだ。
知らないまま過ごすことも、ひとつの愛
メラノーマが見つかってから、岩田さんは少しずつ別れを意識するようになった。
実際に、これまで書き綴ってきたブログやnoteを整理しているという。
「本当に別れが近づいたら、パニックになって何もできなくなると思う。だから元気なうちに、思い出を丁寧に整えておきたいんです」
迎えた日から今日に至るまでの、些細な日常や闘病生活もすべて、いつでも思い出せるように、生き生きとした姿を眺められるようにしている。

取材をしたのは1月下旬。本来ならば術後1回目の再発検査を受ける時期なのだが、まだ予約をしていないという。
「検査はするつもりです。でも…やっぱり、再発していても知りたくないという気持ちもあるんです」
もし再発が見つかっても、打てる手がほとんどないという。1年に2回も手術を受けるのは負担が大きいし、抗がん剤や放射線治療もメラノーマには効果が薄いとされているためだ。
その状況の中で再発を知っても、不安と迷いでいっぱいになるだけだし、そんな自分たちの姿をボンに見せたら、ボンもきっと不安になると心配していた。
「じつはボン、メラノーマが見つかってから手術するまで、いつにも増して甘えん坊だったんですよ。たぶん私たちがとんでもなく心配していたから、逆にボンが私たちを心配してくれていたんだと思うんです。『おいおい、大丈夫かよ?』みたいな感じで」
また同じように心配させるだけなら、知らないまま楽しく過ごすほうがいいのではないかと思うという。
どちらが正解か、岩田さん自身がいちばんわからない。
これからも、たくさん迷って、悩んで、その都度判断していくしかないのだろう。
それでも、甘えん坊のボンは、今夜も自分からベッドに誘ってくる。大好きな岩田さん夫婦の温かな体温を感じながら、満足そうに目を閉じる。翌朝、「出かけるよ!」という散歩の合図で飛び起きると、岩田さんにべったりくっつく一日がまた始まる。
そうして大好きな人のそばにいられて、抱きしめてもらえれば、ボンは幸せに違いない。

南イタリア・シチリアは2月になれば春の陽気だ。
岩田さんは冬用のカーペットを片付けようと、コロコロをかけていた時、ボンの茶色い被毛を見つけて、手が止まった。
『愛犬が亡くなった後、ふいに被毛が出てくると悲しくなる』という、友人から聞いた話を思い出したのだ。
再発するかもしれないし、もう14歳だし…。
迷っていると、足元にいたボンと目が合った。
『おいおい、大丈夫か?』
そんな声が聞こえた気がして、岩田さんは小さく笑い、再び手を動かした。
「来年の冬も一緒にいられるはず」そう思って。
ボンの幼少期から現在までのイタリア暮らしは、以下のブログ・noteにもまとまっています。
特に「メラノーマ闘病記」は、過程が事細かに書かれているのでぜひご覧ください。
■ブログ
●「ボン先輩は今日もご機嫌(https://bonsenpai.com/)」
●「ボン先輩 伴走マガジンー闘病記の裏側で(note)」